少林寺拳法にも多くの優れた達人がおられます。
しかし、すべての達人が指導者として扱われているか?
と言えば、そうでもないと思います。
技はすごいけど、教えを乞う拳士が多くない場合があります。
色んな理由があると思いますが、
その一つに人として尊敬されないことがあると思います。
それには強い自信と強い正義感が災いしていることがあります。
自分ができたから、他人も同じようにできると思ってしまうこと。
また「〇〇はこうあるべき」という正しさを強く信じていて、
それを他の拳士にも守ってほしいと考えている場合が多いと思います。
指導者は自分にも他人にも
「同じ物差し」で向き合うことで信頼を得やすいと思います。
自分が大切にする正しさの中に、
誠実さや謙虚さを持っている人こそが、本当に意味で「達人」なのかもしれません。
そして指導者として扱われない決定的なのは、修練への取り組む姿勢です。
それは意外と自分には甘いということです。
自分が強く信じでいる技・演武・乱捕りなどの正しさを守れなかったときは
「ちょっと調子が悪いとか」
「最近教えてばかりだったとか」と
自分には言い訳をしてしまうことが見られます。
他人には「その技は違う」とか、
厳しく自分の正義を当てはめるけど、
自分には何かと理由をつけて甘いという矛盾が生まれる。
本当の正義感というより
「すごい人であると思われていたい」
「間違っていると思われたくない」
その気持ちが強すぎるのかもしれませんが、
それが無意識のうちに自分だけは特別扱いとなって、
指導者として尊敬されないのかもしれません。
どこの道院・支部で達人だろうが、指導者だろうが、幹部拳士だろうが、
指導する立場であればテクニックより先ず直向きに修練することだと強く思います。


