大会で審判員を務めると、1組目の演武終了後に審判員が集まった際、主審から「80点以下をつけないで下さい」「拳士の心が折れる(詰む)ようなことをしてはならない」と指示を受けることがあります。
私は、この風潮に対して非常に強い疑念を抱いています。 そもそも一審判員としての独立した評価権限に対し、他者から指示されて意図的な点数をつける行為は、正当な審査とは到底呼べません。
評価基準の形骸化と「忖度」の論理的欠陥
少林寺拳法の演武審査において、各項目の基準点は「8点」に設定されています。 当然のことながら、基準となる動きができていなければ、評価は8点を下回ります。それらが複数重なり、総合点が80点以下になることは数学的にも論理的にも至極当然の帰結です。
にも関わらず、総合的に技ができていない拳士が、審判の「忖度」によって80点という下駄を履かせてもらう。これが正しい評価であるとは決して言えません。
一律の点数がもたらす「真の努力への侮辱」
この忖度がもたらす最大の罪は、「できている拳士に対する無礼」です。
自身の内部感覚と徹底的に向き合い、理にかなった身体操作(実利)を体得するために血の滲むような努力をした拳士がいます。その一方で、実力が伴っていない拳士が「忖度」によって同じ80点台の土俵に引き上げられるのです。 私が真剣に修練を積み、評価される側の立場であれば、「一体何のための基準点なのか?」「審判員は、動きの質や実利の差を全く見極められていないのではないか?」と、審判団に対して強烈な不信感を抱きます。
「低い評価で辞めてしまう」という言い訳の欺瞞
「80点以下をつけると、ショックを受けて少林寺拳法を辞めてしまう拳士がいるから」
こうした理由を耳にすることが多々ありますが、これも指導者側の甘えに過ぎません。低い評価を突きつけられた程度で辞めてしまうのであれば、その拳士にとっての少林寺拳法への覚悟は、そもそもその程度のものだったというだけの話です。
自身の現在地(弱さや未熟さ)を直視し、そこから這い上がる過程にこそ、心身を統合する「拳禅一如」の修行としての価値があります。現実から目を背けさせる過保護な採点は、拳士が己の未熟さに気づく「成長の機会」を奪う毒でしかありません。
正確に「差」をつけることこそが最大の礼儀
大会に出場しているすべての拳士が、一生懸命に修練しているのは確かでしょう。しかし、努力の質と量には必ず「差」が出ます。その差を蔑ろにして「みんな頑張ったから同じ点数」とするのは、悪平等です。
演武において、全員が同じ質にならないのは至極当然のことです。 その時、その場で最も優秀で相応しい技量を示した者に対し、厳格な基準のもとに修練を称した高い評価を与えること。そして、未熟な者には相応の低い点数をつけること。
それは決して特定の人への「特別扱い」や「冷酷さ」ではありません。正当な実力を身につけた拳士に対する、武道家としての「最低限の礼儀」なのです。


