少林寺拳法 東京日本橋道院の道院長として、私には明確に定めている一つの指導方針があります。
それは、「たとえ門下生が全日本大会や世界大会で優勝したとしても、祝賀会を開いたり、特別なご褒美を与えたりは絶対にしない」ということです。
冷たい指導者だと思われるかもしれません。 しかし、これには「少林寺拳法の本来の目的」と「人間の純粋な情熱」を守るための、私なりの確固たる理由があるのです。
優勝したからといって「特別扱い」はしない
私の道院では、大人であっても子どもであっても、大会で優勝したからといって特別扱いはしません。
もちろん、そこに至るまでの血の滲むような努力と、その結果自体は心から称えます。 しかし、「優勝したからその人が一番偉い」ということは、武道の世界においてあり得ないのです。
大会の結果というものは、時の運やその瞬間のコンディション、対戦相手との巡り合わせなど、様々な要因が重なって生まれる「一過性」のものに過ぎません。
その一瞬の結果に固執し、周囲が過剰に特別視してしまうことは、本人にとって「慢心」という名の最大の敵を招き寄せることになってしまいます。
外的な「ご褒美」が、純粋な情熱を曇らせる
子どもは本来、純粋に「やりたいからやる」生き物です。 新しい技ができるようになるのが楽しい。道場で仲間と稽古するのが嬉しい。その瞬間、活動そのものがすでに「最高のご褒美」になっています。
そこに大人が「大会で勝ったらおもちゃを買ってあげる」「優勝したから祝賀会だ」といった外的な報酬を持ち込むと、どうなるでしょうか。
純粋にその場を楽しんでいたはずなのに、「頑張れば得をする」「褒められるためにやる」という打算的な認識が生まれてしまいます。 見返りを求めて取り組むことは、本来の「好き」という純粋な感情や、修練に対する情熱を曇らせてしまうのです。
大人も同じ。結果がもたらす「他者の目」という呪縛
この「ご褒美」による悪影響は、大人にとっても全く同じです。
特に武道の世界では、大会で結果を出してしまうと、周囲からの見方は一変します。 「優勝者なのだから、常に立派な品性を備えているはずだ」という過剰な期待を背負わされたり、時には他者から妬みの目を向けられたりすることもあります。
大会の結果に対して大々的にお祝いをすることは、門下生を「結果を出し続けなければ価値がない」「周囲の期待に応え続けなければならない」というプレッシャーの檻に閉じ込めかねません。
少林寺拳法の修練の目的は、他者との優劣を競うことではなく、自己と向き合い、心身を養うことです。 周囲の期待や嫉妬といった「他者の目」に縛られ、純粋だったはずの修練が息苦しいものに変わってしまうのは、悲劇でしかありません。
モノや名誉ではなく「経験」という一生の財産を
結果という「モノ」だけで満足してはいけません。 大切なのは、そこに至るまでのプロセスで何を感じ、何を学んだかという「経験」です。
目に見える賞や名誉ばかりを追い求めると、自分自身の内なる身体感覚と向き合い、泥臭く試行錯誤するという、武道において一番大切なプロセスが疎かになってしまいます。
日々の稽古を通じた経験の積み重ねこそが、将来困難にぶつかった時にその人を強く支えてくれる「本当の力」になるのです。
指導者ができる「唯一にして最大のサポート」
賞を獲ることは、長い修行の道における一つのイベントに過ぎません。
道院長として、私が門下生たちにしてあげられることは、祝賀会を開くことでも、特別扱いをして甘やかすことでもありません。
「門下生たちが結果や周囲の目に縛られず、無心になって修練に取り組める環境を整え続けること」
これに尽きます。 安易な外的報酬に逃げることなく、ただただ環境を整え、見守り、支える。
順位や評価に関わらず、純粋に武道に没頭し、その瞬間の充実感を全身で感じてほしい。 それこそが、私から門下生たちへ贈る、唯一にして最高のギフトだと信じています。

