はじめに:私服姿での指導に対する違和感
以前から、指導者の立場でありながら、私服または上着がTシャツ姿で指導をされている方を極たまに見かけることがあります。
武道において、「道着を正しく着る」「帯を締める」という行為は、日常の自分から修練(稽古)に挑む自分へと精神を切り替える重要なスイッチになるはずです。だからこそ、道場において道着を正しく着ない指導者は、自らの修練やその場に対して敬意を払っていないと感じられても無理はありません。
少林寺拳法において道着に袖を通すという行為は、単なる着替えではなく、「ダーマ(真理)の世界」へと心身を整える儀式でもあると考えます。やむを得ない事情がある場合は別として、日常的に道着を着ずに指導を行う姿勢には、私は強い疑問を感じざるを得ません。
道着を着ない指導への「3つの懸念」
そこには、大きく3つの懸念があります。
1. 「形」と「内面」の不一致
少林寺拳法が「拳禅一如」を説き、広く武道において「心身一如」が求められる以上、内面の整えは外側の形(道着の着こなしや姿勢)に表れるものです。指導者が道着を着ないというのは、自分の内面を「日常」から「非日常の修練」へと切り替えるスイッチを自ら疎かにしてしまっているように見受けられます。それでは、門下生に対して「自己確立」を説いても、言葉の説得力が薄れてしまうのではないでしょうか。
2. 「空白」の捉え方の違い
教育において「あえて教えすぎない余白」を作り、門下生に考えさせることは大切です。しかし、指導者が道着を着ないという「欠落」は、質の良い空白ではなく、単なる手抜きや慢心と受け取られかねません。門下生は指導者の背中(道着姿)を見て、その立ち居振る舞いから言葉にならない多くのことを学び取ります。その鏡となるべき姿がないのは、教育の機会の大きな損失です。
3. 実戦性への疑問
「本来、演武にしか使えない技など存在しない」という信念からすれば、常に動ける状態、つまり「いつ何時でも正しい技を体現できる状態」でいることが理想です。私服で口先だけの指導に終始しているのだとしたら、それは法形から正しい動きや身体感覚を身につける修練とは、程遠い場所にあります。
結びに:道着が作り出す「場」のエネルギー
日常と修練が地続きであるからこそ、その「結び目」となる道着や礼儀を大切にする。その姿勢こそが、道院(道場)という場を作るエネルギーになるのではないでしょうか。

