友人たちとの旅行を振り返る時、最も鮮明に記憶に残っているのは何でしょうか。 美味しかった食事や美しかった景色よりも、道中の予期せぬトラブルや、ハプニングを必死に乗り越えた経験の方が、後になって圧倒的に濃い「思い出(ネタ)」として語られるはずです。

少林寺拳法の修練や合宿においても、全く同じことが言えます。

非日常のストレスが自己を変革する

例えば、伊豆などで行う宿泊を伴う合宿や、慣れない部屋割りでの共同生活など、普段とは勝手が違う非日常の環境下では、必ずと言っていいほど予期せぬ摩擦やストレスが生じます。

旅先や合宿先では、自分に都合よく環境を変えることはできません。 「与えられた厳しい環境に、自らの心身を適合させるしかない」という覚悟を決めた時、人は初めて創意工夫を試み、自己を変革(成長)させます。その苦しくも必死な過程こそが、後になって誰にも奪われない「唯一無二の思い出」へと昇華するのです。

表面的な「楽しさ」を求める拳士の限界

  • 厳しい修練だと楽しめない

  • 大会や審査で低い評価を受けてしまったから楽しくない

このように不満を漏らす拳士がいますが、厳しいようですが、その程度のことで修練の価値を見失うのであれば、少林寺拳法に対する覚悟も最初からその程度だったというだけの話です。

「楽しさ」をあらかじめ修練に求める姿勢は、自分にとって都合の良い、快適な環境だけを搾取しようとする自己満足に過ぎません。その姿勢のままでは、実戦的な理合(実利)や身体操作の深淵に触れることは永遠に不可能です。

苦痛の先にある「結果的な楽しさ」

自己の成長や内部感覚の変化を真に実感したいのであれば、修練の場には多少なりとも「厳しさ」と「苦痛」が存在するのが正しい状態であり、不可欠な絶対条件です。

最初から楽しさを求めるのではなく、逃げ出したくなるような厳しい修練と向き合い、自らの理合を泥臭く追求する。そして、ついに技が機能した瞬間に、結果として「楽しかった(やってきて良かった)」という境地に至るのです。

心身を統合する「拳禅一如」の道において、安易な楽しさに逃げるという選択肢は存在しません。苦難の過程こそが、真の成長と最大の思い出を創り出すことを強く認識すべきです。

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