「高段者は経験豊かで技も上手く、ゆえに偉い」

拳士の中には、段位と実力を無条件に結びつける発想を持つ人がいます。しかし、それは限られた一部の「本物の高段拳士」にしか当てはまりません。 本当に技が上手く、理合を体現できている人は、「自分は上手い」などと自惚れることは絶対にありません。常に自身の内部感覚のズレを疑い、現状に満足することなく「もっと実利を高めるにはどうすれば良いか?」と、泥臭く修練し続けている人間だけです。

過去の「成功体験」という致命的な罠

大会で最優秀賞を受賞した拳士や、高段位を取得した拳士に頻繁に見られるのが、「自分は成功した、完成された」と思い込む致命的な錯覚です。

この自惚れは、修練における最大の敵です。 現状に甘んじた拳士は、自らの動きや理合をアップデート(変化)させようとはしなくなります。しかし、他者は絶えず成長しているため、変化を止めた者は相対的に衰退していきます。

やがてどこかで必ず実力の限界や壁にぶつかります。その時、自惚れた拳士は「成長が止まっている無様な自分」を周囲に見られることが恥ずかしくなり、自身のプライドを守るために見苦しい言い訳を並べ立て、最終的には修練の場から逃げるように辞めていくのです。

高段者の怠慢は組織への「害悪」である

修行の年数や経験を重ね、それを認められて段位を取得したことは事実でしょう。 だからといって、「高段者だから、実力が伴っていなくても、練習で手を抜いても許される」という空気が道場に少しでも流れるならば、それは組織として完全に腐敗しています。

段位が上がるということは、周囲からの尊敬を集めると同時に、初学者よりも遥かに厳格な基準で「自分自身を律する責任」を背負うということです。実力の伴わない高段者が道場でふんぞり返ることは、後進の目標(スタンダード)を著しく引き下げる組織への害悪でしかありません。

評価を捨てる。己の修練から決して逃げない

心身を統合する「拳禅一如」の道において、調子が良い時もあれば、全く身体が動かない悪い時もあります。

しかし、本物の武道家は、どのような状態であっても練習で手を抜くことは絶対にしません。 そして何より、「他者から評価されなくなったから」といって逃げるという選択肢は存在しません。なぜなら、彼らの修練の目的は「他人に褒められること」や「段位という名誉」ではなく、己の内部感覚と向き合い、真の実利を追求し続けることそのものだからです。

高段者だから上手いのではありません。 自己満足を捨て、評価に依存せず、死ぬまで己の未熟さと向き合い、努力を怠らないからこそ上手いのです。

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