少林寺拳法界には、見事な技を体現する優れた達人が数多くおられます。 しかし、すべての達人が周囲から教えを乞われ、「指導者」として尊敬して扱われているかと言えば、現実は全く異なります。技は凄いはずなのに、なぜか人が寄り付かない。その決定的な理由は、技術論ではなく「指導者自身の人格と姿勢」という根本的な欠陥にあります。
押し付けの正義感と「自分基準」の傲慢さ
優れた技量を持つがゆえに、強すぎる自信と正義感が災いしているケースが多々あります。
「自分ができたのだから、他人も同じように努力すればできるはずだ」 「少林寺拳法の技は、こうあるべきだ」
こうした自分の信じる「正しさ」を、他者にも強要してしまうのです。しかし、骨格も運動神経も内部感覚も異なる他者に対し、自分の感覚(物差し)をそのまま押し付ける行為は、指導ではなく単なる傲慢です。
尊敬を完全に失う「ダブルスタンダード(二重基準)」
そして、指導者として扱われなくなる最も決定的な要因は、修練に取り組む姿勢における「自分への甘さ」です。
他人の演武や乱捕りに対しては「その技は違う」「理合がなっていない」と自分の正義を厳しく当てはめる一方で、いざ自分が技を失敗したり、思うように動けなかったりした時はどうでしょうか。
「今日はちょっと体調が悪くて」 「最近は後進に教えてばかりで、自分の修練ができていなかったから」
このように、何かと理由をつけて自己保身の言い訳を並べ立てます。他人には厳格なルールを強要するくせに、自分自身には平気で例外(言い訳)を許す。この矛盾したダブルスタンダードを、門下生は非常に冷めた目で見透かしています。
「見栄」を捨て、ひたむきに汗を流せるか
自分に甘くなる根本的な原因は、本当の正義感などではありません。 「すごい人(達人)であると思われ続けたい」「間違っている、衰えたと思われたくない」という、見苦しい承認欲求と自己保身です。その肥大化したプライドが無意識のうちに「自分だけは特別扱い」という腐敗を生み出し、結果として誰からも尊敬されなくなるのです。
自分が大切にする正しさの中に、誠実さと謙虚さを持っている人こそが、本当の意味での「達人」です。
どこの道院・支部であろうと、どれほど高名な達人であろうと、幹部であろうと関係ありません。指導する立場にあるのならば、他人に小手先のテクニックを説教する前に、誰よりも自分自身に厳しく「同じ物差し」を当て、ひたむきに修練で汗を流す背中を見せること。
それこそが、指導者が信頼と尊敬を得るための唯一の絶対条件です。


