指導者の本来の役割とは何か。それは明確に「後進の育成」です。 少林寺拳法であれば、後輩拳士たちがやがて指導者である自分自身を、人格の面でも技法の面でも越えていけるように導くこと。それが正しい指導のあり方です。

しかし現実には、教え子であるはずの後輩拳士と無意味に張り合おうとする指導者が少なからず存在します。

技術論でマウントを取る指導者の「承認欲求」

「俺はこれだけ凄いんだ」 「自分の凄さを思い知れ」

そう言わんばかりに、色々な角度から小手先の技術論を展開し、門下生に対してマウントを取る指導者を見受けることがあります。 指導の過程で技術の高さを示す必要がある場面は当然ありますが、それが「後輩を萎縮させ、自分の凄さを誇示するための振る舞い」であるならば、それは指導ではなく単なる自己満足です。

己の承認欲求を満たすために門下生を利用する指導者は、武道家としての器の小ささを自ら露呈しているに過ぎません。

イエスマンを重用する組織は必ず腐敗する

人は、身を置く環境と交わる人間によって最も磨かれます。だからこそ、道院や支部という「環境」の質が問われるのです。

自己顕示欲の強い指導者は、自分をチヤホヤと「ヨイショしてくれる後輩拳士」だけを露骨に可愛がる傾向にあります。自分の気分を良くしてくれるイエスマンだけを周囲に置き、あろうことか、そうした実力の伴わない拳士を組織の役職や幹部に就かせてしまうのです。

優秀な拳士に実力で追い抜かれることを恐れ、自分より下の人間だけで組織を固めようとする。このような保身に走った瞬間、その組織の成長は完全に止まります。

実力者が幹部にならなければ組織は終わる

もちろん、実力(技量)さえあれば人間性は問われないというわけではありません。しかし、確かな実力と理合を身につけた人間が組織の役職や幹部に就かなければ、組織全体の基準(スタンダード)は確実に低下し、弱体化します。

実力のないイエスマンが幹部を務める道院・支部では、本当に志の高い優秀な門下生は呆れて離れていくでしょう。

己を越える人材を育てる覚悟

指導者は、自分の目的や目標、ちっぽけな承認欲求を満たすために門下生を教えているのではありません。

  • 誤った指導者: 自分が一番でいるために後輩を抑え込み、マウントを取る。
  • 正しい指導者: 自分を越える後輩を育てるために、己の持てるすべてを注ぎ込む。

後輩拳士の現状を汲み取り、本気で成長を願って正しく育てていけば、組織の空気は自ずと良くなります。そして結果的に、周囲から「本当に必要とされる人間」として、尊敬と感謝を集めることになるはずです。

目先の虚栄心に囚われず、自らを越えていく後進の背中を誇らしく見送れる。それこそが、本物の指導者が持つべき覚悟なのです。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です