結論から言えば、少林寺拳法の修練に「早い者勝ち」の要素など一切ありません。むしろ、どんな形であれ武道の世界に「残り続けること」こそが真の勝利であると私は確信しています。
役職や大会成績は「自己満足の通過点」
- 大会で最優秀賞を受賞する
- 道院長・支部長になる
- 武専教師になる
- 学生指導員になる
- 審判委員長になる
これらは一見すると素晴らしい成果ですが、突き詰めれば自分を満足させるための「自己満足の目標」に過ぎません。これらを他人より早く達成できたからといって、修練が終わるわけではないのです。 武道の修練とは、決して辿り着くことのできない「究極のゴール」に向かって歩み続けるプロセスそのものです。
目に見える「スピード」と、目に見えない「深さ」
仮に大会で優勝を果たしたとしても、表面的な技のスピードや派手さばかりが目立ち、内部感覚や身体操作の「深さ」が全く見えない拳士は山のようにいます。
派手で一時的な成果は周囲から賞賛されやすいですが、実戦や護身において本当に力となるのは、そんなメッキのような技術ではありません。途方もない時間をかけて、身体の奥底に染み込ませた「泥臭い経験」だけが本物の実利を生むのです。
20年の休眠。立ち止まっても「残り続けた者」の強さ
修練を続けていれば、常に調子が良いわけではありません。当たり前のように迷う時期や飽きる時期が来ます。「自分は本当に少林寺拳法が好きなのか」と疑う夜もあるでしょう。
かく言う私自身も、かつては大会で優勝することに必死になり、指導者としての自分の実績や承認欲求を満たすことに固執していた時期がありました。そしてその自己満足に疲れ果て、約20年もの間、少林寺拳法から離れる「休眠」を経験しています。
しかし、完全に縁を切ることはありませんでした。 途中で立ち止まっても、遠回りしても、休んでも大丈夫なのです。色々と形を変えながらでも関わり続け、完全に修練をやめなかった人間だけが、ある日突然「過去の点と点がつながる瞬間」に立ち会うことができます。
この「完全に離れ切らなかった時間」が、後になって身体と心の大きな深み(差)となって表れます。
勝つより残る、抜くより積もる
他人を追い抜くことよりも、自分の中に経験を積み重ねること。 一時的に勝つことよりも、武道の世界に残り続けること。
修練を泥臭く続けた人間にしか見えない景色が必ずあります。 現在の私は、自己満足の実績作りのフェーズを終え、純粋に拳士の仲間を増やすために自分ができることをやる、という境地にいます。
修練の続け方、向き合い方は拳士それぞれで構いません。しかし、少林寺拳法が好きであるならば、どんな形であれ続けるべきです。その蓄積(継続)こそが、やがて他人に価値を与えられる「本物の力」になると、私は強く信じています。


