少林寺拳法を始める目的は人それぞれですが、最も重要なのは「少林寺拳法に興味を持ち、長く修練を継続すること」です。
その意味で、大会に出場することは修練の動機付け(きっかけ)としては有効です。しかし、小学生の拳士に対して「大会で賞を獲得すること(競技としての勝利)」を主目的に据えることには、私は明確に反対します。
「勝つこと」が目的化する構造的欠陥
大会での勝利が目的化してしまうと、深刻な弊害が生まれます。「大会に出続けて勝つこと」でしか、少林寺拳法の楽しさや価値を見出せなくなってしまうのです。
私自身、過去に大会で最優秀賞をいただいた後、燃え尽き症候群のように「次に何を目指せばいいのか」と深く迷った経験があります。 大会で勝つこと自体を絶対視し、勝利に対して過剰な賞賛や特別なご褒美(祝賀会など)を用意するような環境は、子供の修練の動機を「他者からの承認」や「物質的な報酬」へとすり替えてしまいます。
競技特化が奪う「多様な経験(機会損失)」
特に小学生の頃は、一つの競技に縛られるのではなく、世の中の多種多様な物事に触れ、幅広い経験を積むべき時期です。様々な環境で異なる価値観に触れるからこそ、物事の分別や豊かな人間性が育まれます。
大会で勝つためには、必然的に「競技(演武)に特化した修練」に膨大な時間を割く必要があります。これは厳しい言い方をすれば、「大会に出るために、子供の他の可能性や学びの機会を切り捨てている(機会損失)」ことに他なりません。
- 競技特化による弊害:
- 勝敗のみで自分の価値を測るようになる(獲れなかったらダメだという錯覚)
- 実利(護身)とは程遠い、見栄え重視の動きに偏る
- 武道以外の世界(自然体験、工作、異なるコミュニティ等)を知る時間が奪われる
子供に本当に与えるべきは、メダルやご褒美のおもちゃといった「モノ」ではなく、自らの頭で考え、創意工夫を促すような「多様な経験」です。
恩師が教えてくれた「空白」の価値
この思考の根底には、私自身の高校時代の経験があります。
私の高校時代の恩師は、「多感な時期に『少林寺拳法の思い出』しかないのは、人間形成上絶対に良くない」という明確な指導哲学を持っていました。 そのため、夏休みはおろか、冬休みも春休みも、長期休暇中は「普段できないことに挑戦しろ!」と部活動が長期間完全に休みになっていたのです。
この「空白」のおかげで、私は武道以外の世界に目を向けることができました。自分の頭で考える遊びに没頭したり、将来の車やバイクといった全く別の趣味・世界に触れたりする時間が、確実に今の人間形成の糧となっています。
本気で大会に出場したいと願う拳士の意志を止める必要はありませんが、そうではない拳士にまで競技を強要するのは指導者のエゴです。 少林寺拳法の魅力は、大会のフロアの上だけに存在するわけではありません。子供たちの無限の可能性を、競技という狭い枠に閉じ込める指導は今すぐ見直すべきです。



拝見させていただきましたが物凄く同意しました、少林寺拳法は人間形成の行であり、護身術であるはずなのに大会で賞を取るために演武だけの修練を行う、見栄えを良くするために綺麗に投げられる修練を行う、私は柔道もやっていますが、人はそう簡単に投げられるものではなく、投げられない為にどうするかを修行するのが護身術であり武道なのではないのかと思います、柔道は小学生の全国大会を廃止しましたが、この投稿を見て少林寺拳法も小学生に対して何ができるかを考えていく必要があると実感しました、大会に固執すれば学びの機会を失い可能性を捨ててしまう、非常に響く言葉だと思います。長文失礼しました。
コメントありがとうございます。他武道の方からのご意見はとてもありがたいです。
多くの拳士が大会を目的に修練するので、大会の在り方を変えていく必要があると日々感じます。
一方で大会に出場を目的としない拳士も結構な数がいるので、その方々に向けた大会を模索しております。