先日、全国レベルの大会で審判員を務めさせていただきました。 その裏で、長年審判員に選ばれていたある指導者が、今回自分が外されたことに対して不満を漏らし、実行委員会にクレームを入れたという事実を耳にしました。

「自分が全国レベルの審判員に選ばれて当たり前だ」と信じて疑わない、その醜悪な驕り。 年齢による衰えであれ、世代交代であれ、選ばれなかったことに対して不満を漏らす時点で、その指導者は審判という役割を、自身の権威を示すための「既得権益」としてしか見ていません。

競技力・指導力・評価力は「完全に別の能力」である

現役時代にどれほど技が上手かった(競技力が高かった)としても、それだけで現在の拳士を正確に評価できるわけではありません。少林寺拳法において、以下の3つは全く別の訓練を要求される、互換性のない能力です。

  • 出場拳士(競技力): 自らの身体を操り、実戦や演武において結果を出す能力。
  • 支部長・道院長(指導力): 他者の内部感覚を読み取り、理合を言語化して上達へと導く能力。
  • 審判員・考試員(評価力): 瞬時に事象を客観視し、明確な基準(規準)に則って正確な判定を下す能力。

自らの動体視力や判断能力が年々落ちていく残酷な現実から目を背け、「評価するための専門の訓練」を絶えず積んでいない人間は、いくら高段者であろうと絶対に審判席(考試員の席)に座ってはなりません。

過去の成功体験が「想像力」を完全に殺す

最も危惧すべきは、過去に血の滲むような努力をしてきた自負がある高段者ほど、自らの「古い物差し」でしか若者を評価できなくなっていることです。

時代が変わり、日本人の平均的な骨格も、得られる情報量も劇的に変化しました。それに伴い、現代の若者たちは全く新しいアプローチで技の理合を解析し、かつての指導者の想像を超えるような「新しい身体操作」や「独特のリズム」を生み出そうとしています。

しかし、想像力が衰えかけている古い指導者たちは、自分の時代にはなかったその動きを見た時、「基本から外れている」「実戦的ではない」と即座に否定し、鼻で笑います。自分の狭い経験則で測れない未知のものを理解しようとする柔軟性を失い、それまでの人生で培った「あら探し(ダメ出し)」の技術だけで若者を裁こうとするのです。

若者の「逸脱」を自分の物差しで測るな

高段者が過去に凄まじい修練を積んできたことは事実であり、その歴史には敬意を払うべきです。少林寺拳法の根幹をなす理念や、絶対に崩してはならない基本の理合については、厳格に伝え継ぐ必要があります。

しかし、時代はすでに完全に違います。 若者たちが見せる「逸脱」は、決して基本の軽視ではなく、現代の骨格や情報環境の中で「武道としての合理性」を追求した結果の「進化」である場合が往々にして存在します。それを古い枠(型)に無理やり押し込め、上から目線で咎めるだけの指導者は、少林寺拳法の進化を止める最大の癌に他なりません。

審判員(権力)にしがみつく前にすべきこと

大会の主役であり、結果を決めるのは、能力とセンスを結集してコートに立つ「出場拳士自身」です。審判員や考試員に選ばれたからといって、「自分は評価される側の若者よりも優れた存在(上位者)である」と勘違いしてはなりません。

自分の想像が及ばない若者の進化を喜べず、ダメ出しだけが上手くなった指導者は、今すぐ若手に評価者の席を譲るべきです。自らの価値観を疑い、現代の理合に合わせて評価基準を血の滲むような思いでアップデートし続ける覚悟を持った者だけが、審判席に座る資格を持つのです。

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