道院長や支部長として指導に立つ人間は、自身の「教え方(伝え方)」に対して、常に強烈な不安と葛藤を抱えていなければなりません。

「私の今の指導は、本当に目の前の門下生のためになったのか?」

「私の言葉や理合は、相手の身体の内部感覚に正しく伝わっているのか?」

もし指導の現場に立って、こうした不安や疑問を一切抱かないのだとすれば、それは自信などではなく、指導者としての成長が完全に止まった「傲慢」です。

己の技術向上に逃げるな。「他人を上達させる術」を学べ

もちろん、指導者である以上、門下生よりも圧倒的に「できる(理合を体現できる)」という実力と裏付けは不可欠です。しかし、それに過信してはなりません。

指導者が陥りやすい最大の罠は、「指導に対する不安」を解消するために、自分自身の技術スキル(演武や乱捕の強さ)を磨くことに逃げてしまうことです。 指導者の存在意義は、自分自身が上手くなることではありません。「自分以外の他者を、いかに上手にさせるか」です。自分が気持ちよく動けることと、他人の技や動特徴を理解して的確に動かさせることは、全く次元の異なる能力です。

真の指導者であるならば、自己の技術向上に費やす時間を削ってでも、指導法や伝え方の引き出しを増やすために身銭を切り、外部の知識や視点を貪欲に学ぶべきです。独りよがりな視点を破壊し、指導者としての己をアップデートし続けなければなりません。

「完璧な先生」を演じる虚勢を捨てよ

指導の引き出しを増やす過程で、外部のコーチング理論やコミュニケーションスキルを学ぶことは有益です。しかし、それをマニュアル通りに実践しても、道場では付け焼き刃にしかなりません。

なぜなら、道場に通う門下生は、年齢も、骨格も、運動神経も、理解のスピードもすべて異なる「個別の人間」だからです。マニュアル化された言葉一つで、全員の内部感覚を覚醒させることなど不可能です。

「門下生に不安を悟られてはならないから、立派な先生という役を完璧に演じなければならない」 そう考える指導者がいますが、それは自らの弱さを隠すための虚勢です。借り物の言葉や態度で完璧な先生を演じても、門下生にはその薄っぺらさが必ず見透かされます。

本当に信頼される指導者は、完璧を演じません。 「今の説明で、身体の感覚に落ちたか?」 「骨格が違うから、この表現では伝わりにくいかもしれない。別の角度から試そう」 このように、自分の伝え方の未熟さ(余白)を認め、目の前にいる一人ひとりの門下生と泥臭く対話しながら、その相手にしか通じない「専用の伝え方」を共に創り上げていくのです。

伝え方の探求に終わりはない

教え方に「これ」というたった一つの正解(マニュアル)は存在しません。門下生の数だけ、正解の形は変わります。

だからこそ、指導者は常に自分の言葉を疑い、外部から知識を吸収し、独りよがりな視点を修正し続けなければならないのです。自分の見栄や上達に逃げる自己満足を捨て、門下生を上達させる「伝え方」の探求に一生涯を捧げる覚悟を持つこと。それこそが、看板を背負う道院長の果たすべき絶対的な責任です。

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