あなたが演武の構成を組む目的は何ですか。 自ら身につけた技を披露したいからですか。それとも、審査員からの高得点や、他人からの称賛が欲しいからですか。
「その突き蹴りの連反攻はやめたほうがいい(点数が出ない、見栄えが悪い)」という他人のネガティブなアドバイスに引っかかり、構成を右往左往させてしまう拳士がいます。 厳しいようですが、そうした他人の声ばかりを集める拳士は、本心では「自分の選択のせいで失敗したくないから、責任を押し付ける他人のせい(言い訳)を探しているだけ」です。
完璧な構成など存在しない。決断力とは「全責任を負う」こと
以前、とある講習会において、その場で組まれた拳士たちと即席の団体演武を行う機会がありました。 そこには審査員の目も、大会の点数も存在しません。ただ互いの骨格や運動特性の違いを探り合い、ひとつの理合へと統合していく純粋な修練だけがありました。結果として、誰からの評価も気にしないその演武は、机上の構成をなぞるだけの演武よりも遥かに強固な結束と、武道としての実利を生み出しました。
本当に少林寺拳法の理法や身体操作を追究している拳士にとって、全拳士に共通して当てはまる「100%完璧な演武構成」など存在しません。
人間の骨格や筋肉のつき方、内部感覚は拳士によって完全に異なります。得意な動きもあれば、当然不得意な動き、身体的な弱点もあります。 自らの弱点も含めて身体的特徴を冷徹に分析し、「この技と構成でいく」と決断したのなら、そこで起こる結果のすべてに自分で責任を持つ。これが真の意味での「決断力」です。
「本当はこの技を試したかったのに、周りがダメだと言ったから変えた」などと言う拳士は、自らの身体の主導権を他人に明け渡しているに過ぎません。大会の審査基準や他人の評価に責任を転嫁する態度は、武道家として最も恥ずべき精神状態です。 指導者や先輩からの技術的な指摘を受け入れて構成を改善することもあるでしょうが、その指摘を「採用する」と決断した以上、その結果に対する全責任は自分自身が負うのです。
組演武・三人掛け・団体演武における「相手」への責任
ここまでは自分一人の身体(単独演武)の話ですが、これが「組演武」や「団体演武」となれば、事態はさらに厳しくなります。
組演武では相手の、三人掛けでは二人の相手の、団体演武では6人や8人という人数の全く異なる身体感覚を統合しなければなりません。 自分一人の責任すら負えない人間が、「自分の得意な技だから」「これが今の大会で高得点を出せる流行りの構成だから」という理由だけで、体格や運動特性の違う相手に無理な動きを強要すればどうなるか。 理合は完全に崩壊して武道としての実利を失い、最悪の場合は取り返しのつかない怪我を引き起こします。
- 単独演武の構成: 己の身体的特徴(長所と弱点)を理解し、最適化する作業。
- 組演武(三人掛け)・団体演武の構成: 自分と相手(仲間)の身体構造の違いをすり合わせ、全員が最も合理的に動ける「共通の技の理合」を構築する作業。
他人の骨格や感覚を巻き込む以上、組演武や団体演武の構成には、単独演武の何倍もの「責任と覚悟」が要求されます。安易な見栄えや点数のために、仲間の身体操作を歪める権利など誰にもありません。
他人の「評価」は不要。「客観的データ」と「知見」のみを集めよ
誤解してはならないのは、すべての情報を遮断しろと言っているわけではないということです。
「この技は関節への負荷が高く、怪我のリスクがある」といった、生体力学(バイオメカニクス)に基づく『客観的データ』や、指導者が長年の修練から得た『身体保護の経験値(知見)』は積極的に取り入れるべきです。 しかし、「この構成はダサい」「点数が出にくい」といった、他人の主観による『外的評価』は一切不要です。
演武は、自らの身体感覚を研ぎ澄まし、法形の理合を体現するための極めて内省的な修練過程です。 他人のネガティブな評価に怯え、流行りの構成に逃げ込む自己満足を今すぐ捨ててください。自分と仲間の身体に正面から向き合い、その結果に全責任を負う覚悟を持った時、あなたの演武は初めて「本物の生きた技」となります。

