仕事や学校が終わり、「さあ道場へ行こう」と思うその瞬間。ふと、「今日は疲れているから」「少し体調が優れないから」と、何かと理由をつけて稽古を休んでしまった経験は誰にでもあるだろう。

指導者として道場に立つ中で、修練の足が遠のいてしまう拳士を数多く見てきた。

今回は、稽古を休むという「何もしない選択」が、武道家から何を奪っていくのか。行こうと思えば行けるのに、行けない言い訳を探そうとする心理と、その見えない代償について、私の率直な見解をお話ししたい。

「休む」という選択は、ただの痛み止めに過ぎない

「今日は休もう」と決めた瞬間、ふっと心が軽くなるのを感じたことはないだろうか。 道場へ向かう足取りの重さや、厳しい稽古への億劫さ。休むと決めた途端にそれらの不快感が消え去り、安堵する。しかし、それは現状を改善しているわけではなく、ただの一時的な「痛み止め(麻酔)」に過ぎない。

心理学においても、先延ばしや回避は「短期的な気分を立て直す行動」だとされている。その場しのぎの安堵を得るために、本来向き合うべき課題を未来の自分へ丸投げしているだけなのです。

「何もしないコスト」という見えない請求書

稽古に行き、体を動かせば、「疲労」や「筋肉痛」という目に見える代償(コスト)を払うことになる。人はこうした「行動することの代償」には非常に敏感である。

しかし、「稽古に行かないことの代償」には驚くほど鈍感です。 稽古を休んだその1、2時間で、身についたかもしれない技術、得られたかもしれない道院長・支部長や仲間からの気づき、そして維持できたはずの体力。これら「機会費用」と呼ばれるものは、目に見えないからこそ、失っていることにすら気づかない。

行動したことの疲労は翌日にはわかるが、何もしなかったことの代償は、何ヶ月、何年と経った後に、大きな実力差や怪我という形で遅れて請求書が届くのです。

一度止まった足は、次も止まりやすくなる

さらに恐ろしいのは「不作為の慣性」です。 一度稽古を休んでしまうと、次の稽古日も「前回も休んだし、今日もまあいいか」と、休む理由を正当化しやすくなる。昨日休んだという事実が、今日動かないことの言い訳になってしまうのだ。

現状維持とは、立ち止まっている状態ではない。昨日と同じ「妥協の契約」を今日も自動更新している状態である。その自動更新を断ち切るには、強い意志の力が必要になります。

「若いから取り戻せる」という甚だしい思い上がり

道場を見渡すと、必死に食らいつく初心者や級拳士にサボりがちな者は少ない。むしろ、二段、三段と昇段し、ある程度「できるようになった」と自負している有段者ほど、この妥協の罠に陥りやすい。

得意になっているのか、「少し休んでも自分はできる」と高を括っているのか。やっていないと技術が自然と劣化していくという残酷な事実に、彼らは気づいていない。「自分はまだ若いから、後からでも十分に取り戻せる」——厳しいようだが、思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。

若いうちは、限界を超えるような強い負荷の稽古にも耐えられる。しかし、中年になれば肉体的な無理は利かなくなる。強靭な肉体を作り上げるための「真の稽古」ができる期間は、皆が思っている以上に短いということを、早く理解すべきである。

20年の休眠を経験した私からの、嘘偽りない本音

なぜ私がここまで厳しく言うのか。それは私自身が、約20年近く武道から離れていた「休眠期間」を持っているからだ。もちろん、そこには確固たる理由と事情があった。

しかし、事実としてその長きにわたる空白があったからこそ、私は自身の肉体が「ある技術レベル(達人の領域)」に到達することはもう物理的に不可能だと痛感している。 自らの限界を突きつけられたからこそ、私は今、己のすべてを「指導と道院運営」に懸け、情熱を燃やしているのです。

だからこそ、まだ若く、時間も可能性も残されている拳士たちには、安易なサボりで自らの未来の可能性を潰してほしくない。

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