学生拳士の演武がどれも同じに見える。と聞き、私もそう思う。
厳密には異なるけど、同じように見えてしまう。
復帰して4年目、
色んな大学支部に出稽古行かせて頂き出た雑感的な結論は、
ルールが大きく影響しているのではないかと思う。
私が高校・大学生だった頃の組演武は自由組演武という名称であった。
しかし今、そんな名称は見当たらない。
現在は構成6つ、私としてはこれだけで自由のない息苦しさを感じる。
ルールは安全上・競技上なくてはならないもの。
しかし、ルールを厳格・厳密にすればするほど、
ルールを活かせる人、マッチ人たちだけが得をしやすくなるのです。
人は生まれた時から、個人個人違う。
運動神経も違う、体質や体格も違うから平等ではありません。
平等ではない中で、評価を得るには得意・特色を磨くのが得策です。
剛法で始まり、剛法で終わるも柔法で終わるもどっちでも良い。
構成のほとんどを柔法だけでやってもええんちゃいますか?
(一方がゼロはダメだと思います剛柔一体ですから)
色んな人が大会に参加するのだから、
公明正大に行えるよう公平なルールを設けるのは当然です。
ですが、時にルールはこれらの特色を奪いかねません。
公平という名の下に、
無理に平等なルールを目指すとアレだめ、これダメと強い管理が必要になります。
個人の特性を活かせるどころか、
自由は許されない規制管理拳法大会となり全く楽しめなくなります。
いまの大会の評価では、絶対的存在に認められなかった才能は、ドンドンこぼれ落ちていってしまうんじゃないか?
そんな気がしてしまいます。
例え一人の審判に認められなかったとしても、
本質を崩さずにいれば演武の色んな価値観や評価軸があって良いのではないかと思います。
復帰して演武指導をした際に、
学生から「この技・この構成、正解ですか?」と言う質問を多く受ける。
高い評価を得たいから、審判対策をするのはわかるけど、審判の批評に目を向けた演武になってしまっているのでは?
本質的なことを疎かにしては決していけませんが、審判に限らず、立場が上の人が言った価値観が絶対だから、それ以外は認められない。
そんな少林寺拳法だったら、、、最悪ですね。