少林寺拳法の修練には、武階に沿った明確な「科目表」が存在する。 物事に順序があるように、技を習得するための体系的な順序が示されていることは事実である。しかし、日々の道院での修練において、単にその科目表の順番通りに技を教えれば良いかといえば、私は全くそうは思わない。

科目表への盲信が招く「実戦との乖離」

科目表は、あくまで昇級・昇段の要件を満たすために最も役立つ「指標」である。 技の習熟度や身体の使い方は人それぞれ異なり、新しい技を吸収できるタイミングも個々人で完全に違う。一律に「次の級の科目だから」という理由だけで順番通りに技を与えても、それは頭で手順を暗記するだけの作業に成り下がる。

現在の修練において、「今、教えるべきこと」と「まだ教えなくていいこと」の選別は、指導者が目の前の拳士の内部感覚と運動構造を観察し、戦略的に判断すべき事項である。

疑問を持った瞬間が「最大の学習機会」である

私が門下生に技を教える際、最も重視しているのは「実戦や乱捕りの中での課題」である。

乱捕りを行った際や、護身のシチュエーションを想定した際、拳士自身が「こういう状況ではどう動けばいいのか?」「なぜ今の攻撃を防げなかったのか?」という壁にぶつかる。その疑問や解決策を欲したタイミングに合わせて、関連する技を実践的に教える。

本人が自らの身体的課題に気づき、疑問を持った瞬間こそが、技の理合を最も深く吸収できる絶好の機会である。この「生きたタイミング」を逃し、科目表の順番を優先するなど本末転倒である。

指導者の「教えたい欲」を捨てよ

教える順序には、科目表とは別の、その拳士ならではの「最適な順番」が存在する。 ここで指導者が陥りやすい罠がある。それは、自分が知っていること、できることの全てを、科目表を免罪符にして「一度に伝えようとしてしまう」ことだ。

情報過多は拳士の身体感覚を混乱させる。指導者が無理に教え込むのではなく、個人個人の身体特性に合わせて、必要な時に必要な技(処方箋)を提示する。金剛禅の科目表は、本来武階別・武階順に厳格に縛られすぎない柔軟性を持っているため、この「引き出し」としての使い方をするのが最も理にかなっている。

継続の条件は「自ら課題を解決する楽しさ」

技を真に身につけ、心身を統合する「拳禅一如」の境地へ至るためには、何よりも修練の「継続」が不可欠である。

継続を支えるのは、与えられたリスト(科目表)をこなす作業感ではなく、自らの身体的な疑問を技で解決していく「普段の修練自体の楽しさ」である。だからこそ、科目表通りのカリキュラムに固執することは得策ではない。

科目表は、昇級・昇段の時期が来た時に確認と総仕上げとして使えばそれで十分である。 我々指導者が目を向けるべきは、紙に書かれたリストではなく、目の前で汗を流す拳士の「生きた課題」である。

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