審判の「眼」はバラついて当たり前です。

審判員とは言え一拳士です。

審判員になるまでの色々な修行経験を重ねて今に至ります。

それまでの道のりはみんな違います。

みんな違うんです!

無理くり統一しようとすればするほど、
基準という正義の下で審判員は批判され、拳士の動きは個性を失います。

ある基準を定めた時には、
その基準に合う拳士が評価されやすくなります。

高く評価されたい拳士たちにとっては、
その基準に合わせることが正義ですから。

結果、みんな同じ演武のようになる。

と、私は非常に強く思っています。

そもそも基準は、少林寺拳法の技法として最も正しいのでしょうか?

もちろん正しくなると信じて作っている。

けれど、改訂を繰り返しているのは?

問題があるからでは?

その問題は解決したか?

再び改善。

完璧な基準というのはありません。

でも、がんじがらめにすればするほど、

みんな同じ拳風を出すようになります。

完璧と思われるルールを作れば作るほど。

最適解を出せた拳士だけが評価を受けることになる。

ただでさえ学生の演武が同じに見えると言っているのは、
私はルールの基準が突き詰められてきたせいではないかと思っています。

もちろん何でもありはいけません。

なので大会等の目的に応じて柔軟に対応した方が良いと思います。

同じような演武をするのは動画のせいだと仰る先生がいますが、
開祖の動画を見て開祖のような動きになりますか?

師事して会得のことでしょ?

開祖でなくても、
みんなが動画を参考に真似をしてみて、
本当に同じような動きになるのでしょうか?

ならないです。

話を戻し。

本来の少林寺拳法の目的は理解していても、
少林寺拳法をやる理由は皆バラバラです。

違って当たり前なんです。

それを無理に基準を強く求められると、
そうでないフリをしながら少林寺拳法をやる。

楽しくないでしょう。

みんな大会を目指して修練している。

していません。

大会に出たくない拳士はいっぱいいますから。

みんなそれぞれ違うから、
それより各拳士の得意を活かせる大会でもあって欲しい。

今の種目にこだわらなくても良いんじゃないか?

そう強く思って、
自分の地区大会から変えてやると行動している今日この頃です。

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