先生から少林寺拳法の技について、聞かれたらどう思いますか?
間違ったことを言ってはいけないと思われる拳士の方は多いのではないでしょうか?
私も同じです。道院長になってからは尚更です(笑)
しかし、教えるはずの先生が小さな失敗をしたらどうですか?
先生も人。
と思って少し安心するのではないでしょうか。
おそらく理由としては、完璧に見えた人が失敗したことで、親近感のある「人間」に戻ったからだと思います。
ただし実力がある(あるように見える)先生に限られます。なぜなら、もともと優秀でない先生が同じ失敗をすると、やっぱり。
だと、優秀でないことが確信させてしまう可能性が大きいからです。実力がある上で、少しの弱さを見せることが、多くの拳士を惹きつけるのだと多くの指導者を見てきて強く感じます。
ここで言いたいのは、門下生は「完璧な指導者」についていくようでいて、実は「完璧な指導者」にはついていきません。
完璧な指導者が道場に「沈黙」と「硬直」を生む
技の理合において一切のミスがなく、質問すれば即正解が返ってくる。感情を乱さず、常に正しい。一見すると理想の指導者(達人)です。
しかし、門下生の目線から見ると景色は全く異なります。
何を相談しても瞬時に論破され、正論を突きつけられる。最初は頼もしく見えても、門下生は「自分のまだ言葉にならない感覚を言ったら、厳しい指摘をされるのではないか」 。
または「こんな疑問をぶつけたら、叱られるかもしれない」などと思ってしまうのではないでしょうか。
その結果、道場から何が消えるか。 「今の受け、肘が変です」「この掛手だと技につながらない気がします」という、まだ言葉にならない現場のリアルな違和感です。
こういった完璧な指導者の問題は、能力が高いことではなく、周囲を萎縮させ、門下生が「未完成な疑問や意見」を言えない空気を作り出しかねないことです。
会議でみんなが頷くだけの組織と同じく、道場には指導者が気に入る「技のやり方や演武」しか伝わらないようになります。
ただの「頼りない指導者」になるな
ただし勘違いしてはならないのは、「指導者は弱くて頼りない方がいいのか」という極論です。それは全く違います。 ただ技が下手、ただ指導が適当、ただ感情的になる。それは人間味ではなく、組織に対する「不安材料」です。
弱さが魅力と信頼に変わるのは「確かな実力と技量の土台」があってこそです。開祖の哲学を正しく理解し、自身の身体で徹底的に理合を体現できる能力が必要不可欠です。
しっかりとした土台を持った上で、指導者は戦略的に「自分の弱さ」を選んで見せなければなりません。
- 「剛法の突き蹴りは得意だけど、柔法での抜き技は少し動きに自信がないないなぁ」
- 「若い頃、この法形の解釈を完全に間違えていて、散々恥をかいた経験があるんだ」
- 「動画を見て勉強する若い拳士の感覚は、正直私には分からない。教えてくれ」
こうした「弱み」は、指導者への信用を全く壊しません。むしろ、門下生に「この先生の前なら、未完成な自分の疑問をさらけ出しても大丈夫だ」という安心感を与えるものだと強く思います。
その瞬間、門下生は指導者の技を口を開けて見るだけの「観客」から、共に理合を探求する「参加者(当事者)」へと変わりはずです。
借り物のカリスマと「加工された自分らしさ」
リーダーシップでよく語られる「自分らしさ」についても、少林寺拳法の指導現場には大きな誤解があると思います。
先生の威圧的な口調を真似たり、強い指導者像を演じたりする「借り物のカリスマ」は、どこかで必ず薄っぺらさが露呈し、門下生に白けられます。
門下生が見ているのは、指導者の演技の完成度ではなく、「その指導者が何に情熱を燃やし、どこを絶対に譲らないのか」という固有の輪郭でしょう。
しかし、「自分らしさ=ありのままの自分を好き勝手に出すこと」ではありません。 「俺は頑固な性格だから」「嘘をつきたくないから」と言って、相手の骨格や習熟度を無視して正論を叩きつけるのは、ただの未加工の指導者です。
指導者に必要なのは、己の強みと弱みを熟知し、「目の前の門下生と実利を生むために加工された自分らしさ」だと強く思います。
- 門下生が甘えや怠慢に流されている時は、容赦なく基準を引き上げ、厳しく対峙する。
- 逆に、真剣な修練の末に壁にぶつかり苦しんでいる時は、自らの失敗談を語り余白を作るよう仕向ける。
「自分らしさ」とは固定された性格ではなく、現場の状況に合わせて使い分けるべき「指導の技術」なのだと思います。
甘い慰めではなく「厳しい共感」を持て
門下生がついてくる指導者とは、ただ優しい人ではないと思います。本来、指導者は、時に極めて厳しい存在であると私は強く思います。
ただし、その厳しさは「自分がスゴいと思われたい(マウントを取りたい)」という支配のためではなく、相手を誰よりも信じて、ちゃんと見ているからこそ出てくる「厳しい共感」を牽引することです。
大会の演武で失敗した拳士に、「大丈夫、気にしなくていいよ」と甘い言葉をかけるのは偽りの共感です。これでは実利は得られにくいです。 「今の失敗は、普段の練習で受身の恐怖から逃げていた結果だ。悔しいなら、次はどうやってその恐怖を克服するか一緒に考えよう」と。
相手が欲しがる「慰め」ではなく、成長のために本当に必要な「耳の痛い真実」を渡すこと。自分の不完全さを認めながらも、この厳しさから決して逃げない指導者にこそ、人は本気でついていくものだと思います。
関心ではなく「心」を動かせ
完璧な達人の素晴らしい演武は、多くの拳士の「感心」させるかもしれませんが、「感心」は相手を自分とは違う世界の人に置くだけで、実際の行動を起こすことはごく僅かです。
道院や支部に必要な指導者というのは、完璧な達人っではなく自身の限界と弱さを知っており、それを隠し過ぎず、門下生の力が入り込む「余白」をわざと残せる人間です。
「この先生となら、自分の未熟な力でも何か役に立てるかもしれない」 「この先生となら、厳しい修練という面倒な現実を共に引き受けられるかもしれない」そう思わせることこそが、指導の極意ではないかと私は考えています。
指導者とは、誰よりも完成された人間ではなく、道場にいる全員の「不完全さ」を結合させ、実利を伴う『自他共楽の仲間』へと変えられる人です。

