以前、ある大会で見習い(白帯)から有段者までが同じ土俵で競う種目の審査員を務めた際、非常に強い違和感を覚える出来事がありました。
主審から「見習いから有段者まで資格(帯の色)に応じて点数をつけてあげてください(甘く採点してください)」という指示が出たのです。
評価の忖度は、審判員の「自己保身」である
私はこの相対評価(ハンデキャップ)の要求に真っ向から反対します。
大会という順位を決める場において、すべての資格が混在して競うのであれば、評価の基準は「現在の実力」という絶対的なものでなければなりません。主審の指示通りに手心を加えれば、実力がない見習いが高得点を出し、長年修練を積んできた有段者が低い点数になるという逆転現象が起きます。
これは、何年も泥臭く修練を重ねてきた有段者に対する重大な冒涜です。
さらに言えば、「低い点数をつけて、初心者を落胆させる悪者になりたくない」という、審判員側の極めて醜悪な自己保身に他なりません。
大きな失敗も小さな失敗も「冷徹な事実」として突きつけよ
見習いは未熟であって当然です。大会の場で有段者との圧倒的な実力差を見せつけられ、低い点数を突きつけられる。日常の修練において、自分の身体が思い通りに動かない現実を思い知る。
大会での大きな失敗も、日々の修練における小さな失敗も、それはすべて「現在の実力不足」という事実です。審判員は、この事実を一切の偽りなく、はっきりと拳士に伝えなければなりません。
その「ごまかしの効かない絶望的な壁の高さ」を知ることこそが、拳士が次に成長するための最大のエネルギーとなります。
審判員が先回りして「見習いだから」と下駄を履かせ、失敗という事実から守ってしまえば、拳士は自分の現在地を完全に勘違いします。いざ本物の壁にぶつかった時、自分の失敗を直視できず、環境や他人のせいにする脆い人間に育ってしまうのです。
「行きたくない」を乗り越える【継続】が自己を変革する
事実(失敗や未熟さ)を突きつけられれば、当然挫折を味わいます。少林寺拳法の修練は果てしない道のりであり、いつも「道場に行くのが楽しい」と思えるわけではありません。「今日は体が重い」「自分の不甲斐なさと向き合いたくない」と億劫に思う日があって当然です。
しかし、そのネガティブな感情を抱えながらも、道衣を着て継続的に道場へ足を運ぶ。この「日常の些細な葛藤を自らの意志で乗り越えた」という微小な成功体験の反復こそが、何よりも重要です。
継続して通うという姿勢は、単に武道の技量を向上させるだけでなく、人生のいかなる困難な場面においても「逃げずに事実と向き合う」という、揺るがない自己への信頼(土台)を構築します。
結論:道院は「回復力(レジリエンス)」を鍛える場である
当道院が、生体力学(バイオメカニクス)に基づく緻密な内観を要求し続けるのは、単に喧嘩に強くなるためではありません。「自分の思い通りに動かない身体」という残酷な事実と格闘させるためです。技術を徹底的に高めようと泥臭くもがくプロセスを経ずして、折れない心など絶対に育ちません。
道院とは、大人が先回りして安全を確保したり、偽りの評価で機嫌を取ったりする温室ではありません。
あえて困難な事実を与え、存分に失敗させ、悔しさを味わわせ、「翌日にはまた自らの意志で道場へ足を運び、立ち上がる習慣」を身につけさせるための場所です。失敗と成功の厳格なバランスの中で、拳士は本物の回復力を手に入れるのです。


