少林寺拳法の道院長や支部長は、必ずしも技が「達人並みに上手」である必要はないと私は思っています。

もちろん、指導者自身の技術が高く、上手であるに越したことはありません。 しかし現実には、指導者の技術がそこまで高くなくても、門下生には素晴らしい技術を持った拳士がたくさん育っている道場もあれば、その逆もまた然りです。

今回は、東京日本橋道院の道院長として、「指導者の本当の役割」について私の考えをお話しします。

技術向上や大会結果よりも「ずっと難しいこと」

実のところ、門下生の技量を上げること自体は、それほど難しいことではありません。 大会に向けて特訓し、結果を出させるということも、やり方さえ間違えなければ決して不可能なことではありません。(かといって、単に「楽しませる」ことを目的にするのも、個人の主観に依存するため武道のあり方としては少し違うと思っています)。

では、指導者として一番大切であり、かつ最も難しいことは何でしょうか。

それは、「門下生の修練を継続させること」です。

末永く修練を続けられる環境を作ること。これに尽きます。 人は、身を置く環境とそこで共に汗を流す人間によって最も影響を受け、成長していきます。だからこそ、門下生が「ここで修練を続けたい」と思える環境を整え、守り抜くことこそが、指導者としての最大の務めだと私は強く思っています。

少林寺拳法を長く続けることで、単なる技量だけでなく、教えへの理解が深まり、活動を通した豊かな経験が人としての器を大きくしていくからです。

技量や地位を「武器」にする指導者の勘違い

そもそも、技が上達するかしないかは、最終的に拳士個人の能力や努力に依存します。 達人のもとで教わったからといって、誰もが体得できるわけではありません。逆に、指導者のレベルに関係なく、自ら進んで研究し、学び、多くを吸収して勝手に上達していく拳士もいます。

だからこそ、指導者は「自分が上手ではないからリスペクトされないのではないか」と恐れる必要は全くありません。

もし、「指導者が下手だから」と馬鹿にするような拳士がいるとすれば、その人は「他人に手取り足取り頼らなければ上達できない依存的な者」に過ぎません。たとえ優れた指導者の下で習ったとしても、大したことは吸収できないでしょう。

また、指導者が威厳を保とうとして、自らの地位や資格、過去の実績などを誇示したとしても、それは指導の「武器」には全くなりません。指導者の肩書きを並べたところで、門下生の技量が上がるわけではないからです。

弛まぬ研鑽を見せる背中こそが「指導」である

武道の世界において、指導者は教える立場であると同時に、自らも道を歩み続ける「修行者」です。

言い訳をせず、真っ当に努力し続けること。 これが、どんな達人技を身につけるよりも、色んな意味で最も難しいことなのです。正直に言えば、一時の世界大会で優勝することよりも、日々の修練を何十年と継続することの方が、何倍も困難で価値のあることだと私は思っています。

実績や地位だけで、本当の意味で上手になる者はいません。 かつての教え子や後輩たちの中で、今でも現役を続けている者たちの姿を見ると、彼らだけは確実に技術が向上し、人としての振る舞いも円熟味を増しています。それを見るたびに、「真っ当に続けることの偉大さ」を感じずにはいられません。

指導者に必要なのは、達人レベルの完成された技ではなく、不器用でも前を向き、普段の修練から真っ当に努力する姿勢を「背中」で見せ続けることです。

その「弛まぬ研鑽」を自らに課し、実践してこそ、初めて門下生から信頼される立派な指導者になれるのだと私は強く信じています。

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