現代の教育やスポーツ指導の現場では、「褒めて伸ばす」というアプローチが主流となってしまっている。 確かに、初心者の緊張をほぐし、モチベーションを維持する入り口としては一定の効果があるだろうと思います。しかし、東京日本橋道院の道院長としての立場から、私はこの「褒める指導」の裏に潜む恐ろしい罠に対して、あえて警鐘を鳴らしたい。

指導者が門下生に寄り添おうとするあまり、過度に褒め、甘やかしてしまうことは、結果として武道を志す者の「真の成長」を根本から奪い去ってしまうからである。

「褒められること」が目的化した拳士の悲劇

いつも「そうだ!」「上手だね」「筋がいいね」と褒められ続けて育った拳士は、やがてどうなるか。

心理学的な観点からも言えることだが、人は特定の長所(この場合は「よくできる優秀な人」という自己像)で評価され続けると、無意識のうちにその評価を守ろうとする行動をし始めます。 褒められることが当たり前の基準(ベースライン)になってしまうと、指導者から少しでも褒められない日があっただけで、「自分は否定された」「見放された」と極端な不安や不満を抱くようになります。

その結果、彼らの修練の目的は「自身の内観を深め、技を上達させること」から、「指導者から褒め言葉をもらうこと」へとすり替わってしまいます。

こうなると、拳士は「失敗するかもしれない難しい技」や「自分の弱点が露呈する乱捕り」に挑戦しなくなる可能性が大きくなります。今の自分が確実に褒められる安全な範囲に引きこもり、教えられた表面的な形だけを綺麗になぞるようになる。褒め言葉という檻の中に、自らを閉じ込めてしまう可能性すらある。

指摘を恐れる指導者の「甘やかし」が技術を殺す

本来、武道の修練とは「できない自分」「未熟な自分」と真正面から向き合う泥臭い作業の連続のはず。どこで重心が崩れているのか、なぜ技が効かないのか。その現実を直視し、欠点を一つずつ修正していくことでしか、本物の技(武的要素)は身につかない。

だからこそ、指導者は時に「今の動きは全くダメだ」「理にかなっていない」と、冷酷なまでに事実を指摘し、修正を促さなければなりません。

しかし、「拳士に嫌われたくない」「やめて欲しくない」という指導者側の愚かな怯えが先行すると、直すべき欠点があるのに目をつぶり、適当な美辞麗句で褒めてその場をやり過ごしてしまう。 これは門下生に「寄り添っている」のではない。指導者が自分自身の保身のために、相手を「甘やかしている(成長の機会を奪っている)」だけです。ダメなものをダメ!と指摘されない環境で、実戦で通用する本物の技など育つはずがありません。

真に「寄り添う」とは、共に失敗し、壁を越えること

他者の評価(褒め言葉)によって支えられている自信は、砂上の楼閣に過ぎない。いざという実戦の恐怖や、困難な壁にぶつかった時、いとも簡単に崩れ去ってしまう。

我々少林寺拳法の指導者が門下生に真に「寄り添う」とは、耳障りの良い言葉で機嫌を取ることではない。 相手の現状のレベルや内観のズレを正確に見極め、時には耳の痛い指摘を真っ直ぐに突きつけること。そして、その拳士が「できない壁」を越えるまで、決して見放すことなく、共に泥臭く試行錯誤を続けることです。

他人の評価に依存するのではなく、自分自身の身体と向き合い、揺るぎない絶対的な自己を確立していく「拳禅一如」の修行。 褒め言葉という甘い毒に依存させるのではなく、真実(現実の未熟さ)を提示し、そこから這い上がる強さを育むことこそが、我々武道指導者の果たすべき最大の責任なのだと私は強く思っております。

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