少林寺拳法は単に技を身につけるだけでなく「社会に役立つ人づくり」を目指す道です。しかし、現実の修練環境や組織運営においては、この本来の目的を見失わせる危険な心理的なワナが潜んでいます。
当道院を含め、少林寺拳法には修練の到達度を示す武階という段級位(帯の色)があり、指導者としての資格や、組織における役職が存在します。このブログ記事で言う「ラベル」とは、まさにこうした「段位・資格や役職といった、他者からの扱われ方を決める肩書き」のことです。
事実、これらは序列を示すためのものではありますが、指導的立場にある者は、この「ラベル」については深く自覚しておかなければなりません。今回は東京日本橋道院の道院長として、あえて耳の痛い真実をお話ししたいと思います。
1. ラベル(役職・段位)と「人間的価値」は比例しない
段位や資格は、あくまで「技術的・精神的な到達度」を示す指標に過ぎません。役職に就いたからといって、人間として偉くなったわけでは決してありません。
さらに言えば、役職の高さと純粋な技量はほとんど比例しません。なぜなら、卓越した技量を有していなくとも、何らかの実績や役職を遂行する能力が他者から認められれば、役職には就くことができるからです。
実際に優れた技量をお持ちの拳士でも指導が下手であったり、上に立つような人柄ではないという方もいます。逆に、高い役職に就いている拳士でも技量が低い方は結構おられます。審判員と言えども、実際の技のパフォーマンスが高くはないことはザラにあります。
2. ラベルが引き起こす「傲慢」の構造
人間は非常に弱い生き物です。「高段位」や「指導者」というラベルを与えられ、周囲から「先生」「先輩」と敬意を持って扱われ続けると、無意識のうちに「自分は本質的に優れた人間なのだ」と錯覚し始めます。
自分の努力や実力以上に、周囲からの「扱われ方」によって自らが偉いのだと勘違いし、傲慢な振る舞いへと繋がってしまいます。我々指導者は、常にこの危険性を孕んでいることを自覚すべきです。
3. 級拳士から奪われる「余白」
指導者がこの自己錯覚に陥り、権威的に振る舞う空間では、少林寺拳法が目指す「人づくり」など絶対にできません。
上からの抑圧的な空気は、とくに級拳士たちを萎縮させます。結果として、彼らが自らの感覚と向き合い、自発的に試行錯誤する「余白」を奪い、本来持っている能力や可能性を完全に押し潰すことになるのです。
客観的な自己認識こそが指導者の修行
人間は、地位や肩書きを与えられると、そのラベルにふさわしい(と本人が思い込んでいる)態度を自動的にとってしまう生き物です。自らの振る舞いが傲慢に傾いた時、それは単に性格が悪いというよりも、この「階層構造がもたらす錯覚の罠」に無自覚に絡め取られている可能性が高いと思います。
だからこそ、私たち指導的立場にある者、あるいは権限を持つ者は、自らに貼られたラベルの魔力に対して常に自己を疑う視点を持たねばなりません。
自分が後輩拳士たちの前で指導し、道場の上座に座っているのは、己の人間性が他者より絶対的に優れているからではなく、ただ組織における「役割」を担っているに過ぎない。その客観的で冷酷な自己認識を持ち続けることこそが、指導者自身にとっての真の「修行」の第一歩なのだと私は確信しています。

