育児において、「親の本当の仕事は、子供が親を必要としなくなる状態を作ること」だという言葉を聞いたことがある。 我が子に抱っこしてとせがまれていた日々は、いつか必ず終わりが来る。そして、それはある日突然やってくる。「今日が抱っこをする最後の日ですよ」という知らせなどない。

気づいた時には、自分で抱っこをせがむことはなくなり、靴も自分で履くようになり、スタスタと歩き、どんどん親の手を離れていく。子供の成長を心から喜ぶ一方で、そこには確かな寂しさを一人の親として感じたものです。

少林寺拳法の指導においても、これと同じような現象が起きる。今回は、東京日本橋道院の道院長として、武道指導における「親離れ(自立)」について率直な独り言です。

手を離れていく門下生たち

白帯で入門してきた門下生に対し、手取り足取り技の形や足運びを教える時期が当然ある。しかし、修練を重ねるにつれ、彼らは私からの直接の指導を必要としなくなっていく。

私が外から手出しや口出しをしなくとも、自身の感覚を養い、手や足など身体全体の練度を自ら探求し始めるようになる。 武道の教えに「守破離」という言葉がある。 指導者の教えを忠実に守る「守」、自分に合った形を模索し既存の枠を破る「破」、そして指導者から離れ、独自の境地を拓く「離」である。

門下生が「離」の段階に近づくにつれ、私が口を挟む場面は劇的に減っていく。指導者への依存から完全に抜け出し、自らの頭と身体で四苦八苦して技を練り上げる背中を見るのは、親が子の自立を見守る時と同じような、一抹の寂しさを伴うものです。

「余白の教育」が自立を生む

私の道院では「余白の教育」を重視し、手取り足取りの過保護な干渉を排している。安易に正解を与えないのは、この「離」の瞬間を、他人の評価や褒め言葉に依存せず、自らの力で掴み取ってほしいと願っているからだ。

最初は技や心構えが未完成であっても一向に構わない。自分で疑問を持ち、自らの動きを評価し、問いを立て、泥臭く失敗を繰り返しながら、自分の骨格や理合いで解決しようとする姿勢。それこそが、次世代の立派な指導者となるための絶対条件です。

「同志」としての再会

しかし、武道における「離」は、単なる親子の親離れとは決定的に異なる点がある。 それは、指導者の手を完全に離れ、一人の拳士として自立したその瞬間に、「対等な同志(武道家)としての新たな関係が始まる」ということです。

「教えてもらう生徒」と「教える先生」という縦の依存関係を終え、同じ少林寺拳法という道を歩む対等な同志として、互いの技や理合いをぶつけ合い、高め合うことができるようになる。 これほど武道家として、そして指導者として喜ばしい瞬間はない。

真の指導者の仕事とは、いつまでも自分の手元に置いてチヤホヤされることではない。寂しさに耐え、門下生が「自ら育つ」プロセスを邪魔せず、彼らが一人の自立した武道家として目の前に立ち塞がる日を、静かに待ち続けることなのだと私は確信しています。

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