武道の世界において、しばしば混同されがちな事実があります。 それは、「自ら技ができること」「他者の技を審査(見極め)できること」「他者に教えられること」、この3つは本来まったく異なる能力であるということです。
しかし、現在の少林寺拳法では、四段位から段位が上がるにつれて、審判員としての資格も自動的に昇格していくような仕組みが存在します。 私は長年、このシステムに大きな矛盾を感じてきました。
「技を知っている」ことと「見極められる」ことの違い
審査を行うにあたり、まず「技の形や手順を知ること」が見極めの第一歩となるのは、至極当然のことです。
しかしながら、技の本当の良し悪しや理合いというものは、実際に相手と技をかけ合い、自らの「内部感覚」を研ぎ澄ますような泥臭い修練を数多く積まなければ、決して身体で理解することはできません。
一方で、審査や審判とは、その相手の内部で起こっている身体操作を「外から目で見て」一瞬で判断しなければならない非常に高度な作業です。 そこには、プレイヤーとしての修練とは全く別の、「見る目を養うための専門的な修練」が絶対に不可欠なのです。
武階が高い=審査の目が養われている、は間違い
武階(段位)が高いからといって、必ずしも正確な審査の目が養われているとは限りません。
そこには、単なる主観ではなく「技術としての見る目」に大きな個人差が生じています。数多くの演武や乱捕りのパターンを実際に見て、審判としての経験を積まなければ、的確な判断はおろそかになってしまいます。
したがって、たとえプレイヤーとして高段位の拳士であっても、審判員としては一律に「一番下の級(資格)」からスタートし、段階を経て厳格に「見る目」を鍛え直すべきだと私は強く思うのです。
「本物の目」が、武道としての価値を高める
現実問題として、大会に行けば審判員による判定のバラつきを感じますし、昇格審査においても考試員による目線の差を感じざるを得ない場面があります。 この現状を放置していては、一生懸命に修練を積んできた拳士たちが報われません。
高段者であっても驕ることなく、全員が一から審判としての目を養い直す。 そのくらいの厳格な仕組みがあって初めて、どの段位においても揺るぎない、本物の「審査の目」が育つのだと考えます。
そして、その確かな目を持つ指導者・審判員が増えることこそが、少林寺拳法の拳技が「武道」として広く一般から正当に評価され、認められることに繋がっていくのだと信じています。


