「開祖はこう言っていた」 指導の現場でこの言葉を聞いた瞬間、私はその拳士(特に指導者)の底の浅さを痛烈に感じます。

もちろん、開祖の残した言葉や哲学は素晴らしいものです。しかし、開祖が血の滲むような実践から導き出した言葉を、さも自分の手柄のように語る拳士の技や教えには、何の質量もありません。

そこには「自らの身体を通した実体験」という強烈な裏付けが完全に欠落しているからです。

借り物の言葉は「実利」と「重さ」を伴わない

裏付けのない技や知識は、言葉に一切の重みが宿りません。道院長や支部長という看板を背負いながら、耳障りの良い名言を並べるだけの指導者は、いずれ必ず門下生に底の浅さを見透かされ、信頼を失います。

外から集めた知識だけでは実戦に耐えられない

「門下生のために」と真面目に様々な技のやり方や知識(正解)を外から集めてきても、それを自身の身体で本気で試し、壁にぶつかり、絶望する経験を経ていなければ全く無意味です。

借り物の言葉や技は、いざという実戦のプレッシャーや、門下生からの鋭い質問の前では瞬時に限界を露呈します。なぜなら、自分自身の頭と身体で考え、理合を判断する力が何一つ身についていないからです。

「自分の経験だけが価値を持つ」という危険な錯覚

しかしここで、多くの指導者が陥る罠があります。「借り物の言葉がダメなら、自分が限界まで取り組んだ経験や失敗談だけを語ればいい」という思い込みですが、これは明確な間違いです。

我流の苦労話は単なる「自己満足の押し付け」

自らの痛みを伴う経験や失敗は尊いものですが、それ「だけ」を指導の拠り所にすることは、拳禅一如の理合を放棄した「我流への堕落」に他なりません。

あなたの身体特性や、あなた個人の挫折の歴史が、そのまま他の門下生にとっての普遍的な正解になるわけではありません。指導者が己の経験談(武勇伝や苦労話)ばかりを語り始めれば、それは指導ではなく単なる自己満足の押し付けへと変貌します。

「開祖の言葉」を「実利のある自分の言葉」に変換する条件

指導者に求められるのは、知識の受け売りでも、我流の感情的な経験談を語ることでもありません。以下の4つのプロセスを踏むことが指導が確立させる上で重要だと思います。

  1. まずは普遍的な基準としての開祖の言葉や技の理合を正しく学ぶ。
  2. 学んだことを自身の身体に当てはめ、泥臭い修練の中で無数の失敗と挫折を繰り返す。
  3. なぜその技がかからなかったのかを力学的に分析し、個人の感覚から万人に通じる理合へと昇華させる。
  4. 抽出した理合を、目の前にいる「自分とは身体構造が違う門下生」の現状に合わせて言語化する。

このプロセスを経た時にのみ、「開祖はこう言っていた」という借り物の言葉は、門下生の身体を的確に動かす「強い説得力」へと変わります。

安易な受け売りで指導者の責任から逃げるのも、己の経験(武勇伝)だけを過信して客観的な理合の探求から逃げるのも、どちらも指導者の怠慢です。

全身全霊で修練を積み、普遍的な真理と己の肉体の狭間で苦しみ抜き、そこから抽出した「生きた理合」だけが、門下生を真の実利へと導きます。

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