少林寺拳法において、修練の一環や大会競技として不可欠な「演武」。 しかし、この演武の目的を「技の見栄えを良くすること」「カッコよく見せること」だと勘違いしてしまっている拳士が少なからず存在します。

今回は、東京日本橋道院の道院長として、「本来の演武のあり方」と、それにまつわる誤った認識について率直にお話しします。

見栄えの追求は「武的要素」を完全に殺す

演武において、技を装飾するかのように見栄えやカッコよさばかりを追求するとどうなるか。 結果として、「見栄えはいいけれど、実戦や護身術としては全く役に立たない」という、中身のないダンスのような演武が生まれてしまいます。

武的要素を失った演武は、少林寺拳法ではありません。 本来の良い演武とは、「当たれば必ず怪我をしてしまう本気の突き蹴り」を、あらかじめ約束事として決めた間合いの中でギリギリで攻防するものです。お互いの内部感覚を極限まで研ぎ澄まし、本気の殺気を制するからこそ、そこに武道としての美しさが生まれるのです。

「ミスをしないこと」に固執しすぎていないか

演武の修練中、「とにかく手順を間違えないように(ミスをしないように)」と意識を張り詰めている拳士は多いでしょう。 しかし、ミスなく完璧にこなすことなど、ほぼ完璧な技量を持っている達人にしかできません。残念ながら、私たちの大半は「100点」ではないのです。

見栄えや「間違えないこと」に固執しすぎる必要はありません。 大抵の人は、どれだけ頑張っても100点にはなれないのですから、些細な手順のミスを恐れるよりも、目の前の相手との「本気の攻防」に集中し、武道としての高い次元(高得点)を安心して目指せば良いのです。

みんながみんな達人レベルではありません。高段者であっても、技量が足りていない部分は当然あります。(中には、それがバレないように偉そうな持論を展開して、実際に技を披露しない高段者も極たまに見かけますが……)。

法形(ルール)に縛られ、実利を見失う悲劇

「間違えてはいけない」という思い込みから法形(決まった形)に固執し過ぎると、本来の技が持つ実利(実戦での理合い)を完全に見失います。

形をなぞるだけのロボットのような動きでは、心と身体が一致する「拳禅一如」の境地には決して辿り着けません。法形はあくまで基本の土台であり、絶対的な縛りではないのです。

嫉妬や言い訳を捨て、己の修練に向き合う

最後に、少林寺拳法の界隈で時折耳にする「残念な批判」について苦言を呈しておきます。

大会で入賞したことがない(あるいは結果を出せない)にも関わらず、入賞した拳士たちの演武を見て「あいつらは見栄えだけで、どうせ本当の技はできていない」と嫉妬混じりの批判をするのは、今すぐやめましょう。 また、自分より技が上手くできない拳士に対して「あいつらはどうせ金剛禅の教えを分かっていない」と、思想を盾にして見下すのも間違っています。

他人の演武の粗探しをしたり、見栄えやミスに囚われたりしている暇があるなら、まずは己の修練と真っ直ぐに向き合うべきです。 不器用でもいい、ミスをしてもいい。本気の突き蹴りで相手と語り合う「武道としての演武」を、これからも追求していきましょう。

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