先日、大学生の演武講習会に審判員として参加し、次代を担う学生たちに直接フィードバックを行う機会を持ちました。他の審判員の多様な着眼点に触れることができ、非常に実り多い場でしたが、同時に指導の現場で頻繁に耳にする「ある言葉」に対し、強い危惧を抱きました。

「どうすれば点数が上がりますか?」 「今の基準では、何が『正解』ですか?」

競技として高みを目指す以上、こうした問いが出るのは当然の心理かもしれない。しかし、この思考には武道として決定的な論理的欠陥が存在します。

点数最適化が招く「画一化と無個性」の罠

採点基準という枠に自らを最適化しようとするあまり、現在の演武は画一的で無個性に陥る危険性を孕んでいる。

少林寺拳法の教えに「人、人、人、すべては人の質にある」とある通り、審判も一人の人間に過ぎず、評価の視点は決して単一ではない。誰かが決めた一時的な「正解」やルールの枠組みに迎合する行為は、自らの武道としての可能性を狭める逃げでしかない。

私が絶対に評価しない「形だけの演武」

私自身が指導や審査の場において最も重視し、逆に「絶対に評価したくない」と切り捨てる明確な基準がある。

  • 絶対に評価しない演武: 演武と乱捕(実戦)が完全に乖離した、魂の伴わない「形だけの動き」
  • 高く評価する演武: 理にかなった身体操作と、実戦を想定した武道としての論理が貫かれている動き

内部感覚と身体の連動(バイオメカニクス)が欠落し、ただ見栄え良くミスなくまとめただけの演武には、武道本来の力強さも、見る者を圧倒する凄みも宿らない。それは実戦の役に立たない単なる舞踊である。

己の理合を突き詰める「覚悟」を持て

学生たち、そしてすべての拳士に強く突きつけたい事実がある。誰かが決めた絶対的な「正解」など、この世界にはどこにも存在しません。

審判の評価を満たすための演武ではなく、己の目指す強さと理合を突き詰める「覚悟」を持つべきです。 実戦を想定し、理にかなった動きを自身の内部感覚とすり合わせながら徹底的に追求する。その果てに滲み出るその人自身の「個性」こそが、結果として誰の目にも明らかな「質の高さ」となり、見る者の心を揺さぶるはずだと思います。

審判のためではなく、己のために。 他者の評価に依存する甘えを捨て、揺るぎない覚悟を持った拳士が一人でも多く育つ環境を作ること。それこそが我々指導者に課せられた責務であると考えます。

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